読書について


読書について 他二篇を読みました。



ショーペンハウアーの主著「意志と表象としての世界」の付録と補遺(パルエルガ−ウント−パラリポメナ)として書かれたエッセー集からの抜粋です。あくまで付録のつもりだったのらしいですが、初めてのベストセラーとなり商業的な成功を収めました。

ショーペンハウアー哲学の入門書として、一般人、中でも若者を対象として書かれています。

内容は、「思索」「著作と文体」「読書について」の3編から成っています。

「思索」では自分で考えることの大切さと多読の害を戒めています。


数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめるが、知識の場合も事情はまったく同様である。いかに多量にかき集めても、自分で考え抜いた知識であればその価値ははるかに高い。

我々が徹底的に考えることができるのは自分で知っていることだけである。知るためには学ぶべきである。

多読は精神から弾力性をことごとく奪い去る。つまり自分の思想というものを所有したくなければ、そのもっとも安全確実な道は暇を見つけしだい、ただちに本を手にすることである。(思索)


「著作と文体」は、文筆業を志す方は一読の価値があります。後半、ドイツ語を改悪しようとする当時の情勢に対する痛罵は、現代日本の僕らが読んでも何をいっているかさっぱり分かりませんが、その他の部分は表現者への警句に満ちています。

しっかりと自分のコンテンツをもって平易な文面で読者を意識して書かないといけないです。自己満足ではなく、読んで貰って理解して貰うことが大切です。


誰にも分からないように書くことほどたやすいことはなく、逆に重要な思想を誰にでも分かるように書くほど難しいことはないのである。

大切なのは普通の語で非凡なことを言うことである。

すぐれた文体たるための第一規則は、主張すべきものを所有することである。

(思想豊かなすぐれた著作家は)実際、主張すべき真実のものを所有しているため、つねに極度に飾り気のない簡潔な表現法、きれいにわりきった明確無比な表現法を駆使するであろう。それはその関心が、ただ現に所有しているこの思想を、読者の中にも呼びおこさなければということだけに集中しているためである。

つまり思想というものは、頭から紙に向かうのは容易であるが、逆に紙から頭に向かうのは大変なことで、その場合には手持ちのあらゆる手段に助けを求めなければならないのである。

もっとも心すべきは、自分に備わっている以上の精神を示そうとして、見え透いた努力をしないことであろう。


「読書」では「思索」で述べられたことが繰り返されます。中でも「流行もの」のベストセラーを読むことを戒め、風雪に耐えて残っている古典を読むことを強く薦めています。

毎月参加している読書会では、50年以上読み継がれている書物を古典として取り上げ、一冊ずつ読み込んでいます。

自分の趣味嗜好に偏らず、『これを読みなさい』と渡されて、一ヶ月後に意見を述べるという会なのですが、本当に自分のためになっています。

今年の5月で丸2年になるのですが、再読した本は数えるほどです。反省しないといけないですね。


ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失っていく。つねに乗り物を使えば、ついには歩くことを忘れる。しかしこれこそ大多数の学者の実状である。彼らは多読の結果、愚者となった人間である。なぜなら暇さえあれば、いつでも直ちに本に向かうという生活を続けていけば、精神は不具廃疾となるからである。

熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。食物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである。それとは逆に、絶えず読むだけで、読んだことを後でさらに考えてみなければ、精神の中に根をおろすこともなく、多くは失われてしまう。

読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。その技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。

「努めて古人を読むべし。真に古人の名に値する古人を読むべし。今人の古人を語る言葉、さらに意味なし。」

凡庸な者と凡庸な者とは、いったいなぜこのようにたがいに似ているのか。いったい彼らは全て同じ一つの型で鋳られたのか。彼らの中の誰もが、同じような機会に同じことを思いつくではないか。違ったことは何一つ思いつかないではないか。

しかもこのような連中の下らぬ雑書を読む愚昧な読者がいるのである。彼らは新刊書でありさえすれば飛びつき、偉大なる精神から生まれた古典は、書架に死蔵しておく。

一般読者の愚かさはまったく話にならぬほどである。あらゆる時代、あらゆる国々には、それぞれ比類なき高貴な天才がいる。ところが彼ら読者は、この天才のものをさしおいて、毎日のように出版される凡俗の駄書、毎年ハエのように無数に増えてくる駄書を読もうとする。

このよな駄書はいずれ2、3年経てば、打ち捨てられ、嘲罵される。

「反復は研究の母なり。」重要な書物はいかなるものでも、続けて2度読むべきである。それというのも、2度目になると、その事柄のつながりがよりよく理解されるし、すでに結論を知っているので、重要な発端の部分も正しく理解されるからである。


書名の重要性を説いた後で、書名をパクって来ることを厳しく非難しています。


もっとも悪しき署名は、盗み取ってきた書名、言い換えればすでに他人の著書のものになっている書名である。その理由は第一にそれが剽窃であること、第二にそれはその著者に独創性がまったく欠けていることを遺憾なく証明することである。すなわち自分の著書に書名を新しく案出する程度の独創性さえない者に、どうして新しい内容をもった著書を公にすることができるだろうか。


世界の中心で、愛をさけぶ
最近典型例がありましたね。売れているらしいのですがまったく読む気がしません。世界の中心で愛を叫んだけものからのパクリだということが明白です。タイトルを見ただけで読む気が失せました。

エリスンの短編は実験的で難解ですが独創性があります。おそらくタイトルの格好良さだけでパクったのでしょうが、内容はエリスンの足元にも及ばないでしょう。

世界の中心で愛を叫んだけもの」に収められている短編では「少年と犬」が好きです。


愛って何か知ってる?

ああ、知っているとも。

少年は犬を愛するものさ。