ショーペンハウアー

ショーペンハウアー全集 (1)


ショーペンハウアー現代思想史に色濃く影響を残す大哲学者です。

1788年に裕福な商人の息子としてダンツィヒに生まれます。

ずっと世に認められない不遇な在野の哲学者でしたが、晩年近くになってようやく認められます。最期はショーペンハウアーを尊敬する弟子に囲まれて幸せな晩年だったようです。

死去したのは1860年72歳の時で、日本では桜田門外の変があった年です。

17歳の時に敬愛していた父が事故で他界してしまい、衝撃を受けます。ショーペンハウアー哲学には死の陰が付きまといますが、この影響があるように思います。

その父が残してくれた遺産で一生を自分の哲学の考察に使うことができました。

母は才能溢れる著名な小説家でしたが、近親憎悪があるのか、お互い反りが合わず、ほぼ断絶状態となります。そのためか、女性に対してはむちゃくちゃなことを言っています


背の低い、肩幅の狭い、尻の大きい、足の短い種族(女)を美しいものなどとよぶことができるのは、ただ性欲のためにぼけている男の知性だけである。すなわち女の美しさというものは非美学的なものとよんだ方がはるかに正当であろう。

音楽に対しても、詩に対しても、造形美術に対しても、じっさい正直なところ女たちはなんのセンスも感受性ももちあわせていない

ショーペンハウアーが敬愛していたゲーテのように終生女の尻を追いかけるような色呆けは碌な者じゃありませんが、これは極端です。終生独身を通すぐらい首尾一貫していますが、そんなに嫌なことがあったのでしょうか。ゲーテと足して2で割ったぐらいが良かったかもしれません。


ショーペンハウアーの哲学は、理性に対して意志に重点を置いた哲学です。

ものすごく乱暴に定義すると、ギリシャ哲学が理性の哲学とすると、デカルト以降の近代哲学は悟性の哲学、ショーペンハウアーの哲学は感性の哲学となります。(※誰が言っているわけでなく、僕の感想にしか過ぎません。)

人間の認識能力には経験という限界があるため、分かっていると勘違いしている世界は自分が認識して作り上げた世界に過ぎないとのカント哲学がベースとなっています。


疑いようのない事実は太陽を眺める眼の存在と大地に触れる手の存在である。この事実は彼を取り囲む世界がただ表象として存在するにすぎないことを意味する。言いかえれば世界はあまねく他者との関係において存在する。つまり世界というものは当の人間自身であるところの表象する存在者というものを前提とし、それとの関係においてのみ存在すると言うことである。

およそ世界に属しているものおよび属しうるものすべては、主観による制約と不可分に結びついており、主観に対してのみ存在する。世界は表象である

表象を除いたところ、意志が残ると言っています。

ここでの意志とは、「強い意志を持って」というような一般的な意味ではなく、本能的な衝動に近いものです。人間に限らず、動物植物無機物にも意志があるとしています。山川草木悉皆仏性と言いかえると僕らには理解しやすいかもしれません。(ちょっと違う気もしますが)

そして世界は各々の意志が自己の存続を目指して争う場であるとして、この世界は苦悩に満ちた最悪の世界であると結論づけています。この辺からドーキンスが影響を受けた形跡があります。


世界が意志であるならば、それは苦悩の世界であるに違いない。意志そのものが欲望であり、しかもその意志はつねに自分自身でもつことができるよりもさらに多くのものを、つかみたがるからである。一つの欲望が充足するたびに、まだ満足させられていない欲望がいくつも残る。欲望に終わりはなく、満足は限られている。だからわれわれが意志の主体である間は、われわれのもとには決してなが続きする幸福も休息もおとずれない。

意志は自由であり、なんでもすることができる。そしてわれわれの眼に映じる世界は、単にこの意志の欲望を映す鏡であるにすぎないという。すると世界が含むあらゆる有限性、あらゆる苦悩、あらゆる悲惨さは、意志が欲するものの表現に属しており、意志がそのように欲するからこそ、そのようにあるということになる。

その苦悩の世界から脱出するには、「意志の否定によるより他に方法はない」と断言しています。

つまり相手の苦しみを我がものとして共に苦しむことでこの苦悩に満ちた世界を脱しようとするものです。

ここでは同情でなく共苦と言った方がドイツ語の意味に近いとのことです。

『我欲はエロスであり、共苦はアガペーである。』


この世界は生老病死という苦に満ちた世界であるという仏教の考えに近いため、元々の素養がある日本人には理解しやすいと思います。

現実の最悪なことを理解することでそれに立ち向かおうとする考えであり、厭世主義とは正反対です。

生まれてきたものが死ななければならない。生きているという状態は死んでいないという否定によってしか成立しないため、生の中に死があるとの諦念により死への恐怖を克服しようとしています。


なかなか面白かったです。理論武装されている箇所と、直感による発想の飛躍が極端でしたが、納得するものを感じました。しばらくショーペンハウアーに沿ってみようと思います。

ところで、誰もいない森の中で倒れた木の音はすると思いますか?