自衛隊派遣についての一考察


イラク自衛隊を派遣したことについて、世論は議論沸騰であるが、そうした白黒付け難いグレイゾーンの論題をいきなり提示されても議論することはできない。

共通の認識を一つ一つ確認することで、判断基準はどこにあるのか、何を為すべきで何を為すべきでないかを切り分けることができる。もし共通認識を持つことに至ることができなくても、お互いの考えの違いを認め合うことができるはずである。

現代史をちょっと振り返るだけで、立場が違う者でも同じ判断となるであろう不幸な事例は存在する。

ポル・ポト率いるクメール・ルージュ200万人を惨殺したカンボジアに軍隊を送り、虐殺を止めさせるべきであったのか。

政治的自由を求めた「プラハの春」に対してソビエト連邦チェコスロバキアへ軍隊を送り、戦車で民衆を制圧したことは非難するべきか。

それでは過去でなく、現在進行中の問題についてはどうか。

イスラエルが植民を進めてパレスチナ民衆を迫害していることに対してはどうか。

チベットに対して中国が圧政をおこなっていることについてはどうか。

収容所国家の北朝鮮へ圧迫を加えて拷問で殺される者を救うことはどうか。

内政干渉という、もっともらしい抗議にひるみ、人間としての尊厳が認められていない者に対しての助けを怠り、飢餓や拷問によって殺される人々がいるというのは僕らに責任はないのか。

もちろん僕らは全能の神ではなく、絶対的な審判者として他人を裁くことは人としての分を超えたことであり、それに伴う責任を想像すると恐れおののくだけである。

人は愚かな存在であるから、自分がやったこと、やらなかったこと、やるべきであったこと、やるべきでなかったことについて反省することでしか、成熟することができない。

人の身としては苦難に喘ぐ民衆に同情し何かできることはないのかと悩み続け、自省を忘れないようにしながら、できることから行動に移すしかないのだと思う。

大切なのは、善を為したいのなら、悪の手段を行使することをためらってはいけないことだ。

偽善者とは、本意ではないのに善を為す者のことを言うのではない。

本当の偽善者とは、手段としての善にこだわるあまり、目的としての善をおこなわない者のことを指す。

軍隊を派遣することで世論の批判を恐れるあまり、治安維持を必要としている地域への助力をためらう必要がどこにあるのだろう。

意思決定プロセスが不明確な点、法的に不明瞭なままで押し切っている点、権限と責任が曖昧なままで派遣することが先行している点など、糺さなければいけないことはいっぱいあるが、助力を必要としている地域があることには異論がないはずだ。

そして一度援助の手を差し伸べたからには、できる範囲で全力を挙げて支援するべきである。

目の前で子供が溺れていたら、スーツのままで川に飛び込めば良いのだ。打合せなんか遅れたって構うものか。