職業としての政治


職業としての政治

先日、毎月参加している読書会がありました。

今月はマックス・ヴェーバーの「職業としての政治」でした。

100ページちょっとしかない薄い本なのですが、市町村合併へ異議申し立てをしている最中に考え考え読んだため、すっかり時間が掛かってしまいました。


政治家にとって大切なのは将来と将来に対する責任である。


現在の合併を進めるやり方は、自己保身しか考えていません。もうすでに合併後のトップ人事まで密室で決められているとのことです。

「地域住民の」将来と将来に対する責任を顧みず、「自分と取り巻きの」将来だけを気にしているとしか思えません。


国家とは、支配手段としての正当な物理的暴力行使の独占に成功した団体であると定義しています。

その団体の振るう暴力を左右する権限を持つ政治家には高い倫理性が要求されます。

政治家に要求される責任倫理とは、予見できる結果について責任を負うため、結果を重視して手段には拘りません。

もちろん目的は手段を正当化しませんが、責任倫理の観点からは必要以上に手段の正当性に拘ることは妥当ではないとしています。

政治とは暴力に裏打ちされた権力の配分を争う行為であるため、政治は『すべての暴力の中に身を潜めている悪魔の力と関係を結ぶ』ことになると定義しています。

理念を持って、手段は選ばず。自らが善と確信することをおこなおうとする者は、悪の手段を行使することをためらってはいけないということです。

今の僕にはキビシイ内容ですね。

政治家にとって重要な資質として、情熱、責任感、判断力の三つの資質を挙げています。

単なる興奮ではない、責任感に裏打ちされた熱い情熱

そして確固たる理念に基づく冷静な判断力

同居することが難しい、この二つの性質を、ひとりの政治家は持ち合わせていなければいけません。

普段は醒めているのに、ちょっとした刺激で激情することがある僕は、この資質に欠けているなと思います。


単なる情熱だけでは充分でない。情熱は、それが「仕事」への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な規準となった時に、はじめて政治家をつくり出す。そしてそのためには判断力が必要である。すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けとめる能力、つまり事物と人間に対して距離を置いてみることが必要である。

政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ不可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。


自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が−自分の立場から見て−どんなに愚かであり卑俗なものであっても、決して挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。


僕はどうかな。適度に自省することは良いことだと確信しているのですが、政治家はあまり自省してはイケナイようです。

やっぱり僕はヴェーバーのいう職業政治家には向いていないかな。


彼が彼女を愛していず、彼女がそれを耐え忍ばねばならぬ、というのは確かにありのままの運命である。ところがその男がこのような運命に加えて、卑怯にもこれを「正当性」で上塗りし、自分の正しさを主張したり、彼女に現実の不幸だけでなくその不幸の責任まで転嫁しようとするのは、騎士道精神に反する。恋の鞘当てに勝った男が、やつは俺より下らぬ男であったに違いない、でなければ敗けるわけがないなどとうそぶく場合もそうである。戦争が済んだ後でその勝利者が、自分の方が正しかったから勝ったのだと、品位を欠いた独善さでぬけぬけと主張する場合ももちろん同じである。

ヴェーバーが非難する上記の行為は、二重に相手を貶める(おとしめる)ことになります。

一度目の対立はお互いの希望欲望が相違しているためであり、やむを得ないと納得しますが、二度目の追撃は虚栄心のためであり、許されることではないと思います。

現在、情熱を注いでいる市町村合併の決着がついて、首尾良く目的を達成することができたとしても、上記の戒めは肝に銘じなければイケマセンね。


全能であると同時に慈悲深いと考えられる力が、どうしてこのような不当な苦難、罰せされざる不正、救いようのない愚鈍に満ちた非合理なこの世を創り得たのか。この疑問こそは神議論の最も古い問題である。この力には全能と慈悲のどちらかが欠けているか、それとも人生を支配するのはこれとは全然別の平衡の原理と応報の原理なのか。

この世がデーモンに支配されていること。そして政治にタッチする人間、すなわち手段としての権力と暴力性とに関係を持った者は悪魔の力と契約を結ぶものであること。さらに善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為にとって決して真実ではなく、しばしばその逆が真実であること。

これが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である。


ずっと考察のテーマだった「解放の神学」について解答のヒントを提示されたと思います。

本項については、いずれまた。