千曲川のスケッチ
『若菜集』刊行ののち,私塾の教員として信州小諸で6年間を過ごした藤村(1872−1943)は,千曲川にのぞむその地の人々の暮らしや自然を詩情豊かに描いた.この小品集は,そのなかから作者自身が若い人たちのために選び,明治末から大正初期にかけて雑誌『中学世界』に連載したものである。
詩人としての名声を確立した島崎藤村が小説家に転向するに当たって、文章の訓練を目的として書き綴ったエッセイです。
「簡素」を旨とした藤村らしく、精緻な文章が書かれています。
文筆を志す者は一読の価値があります。
小説は、最初の一文でその評価が分かると言いますが、唸ってしまう出だしが多いです。
『この山の上で、私はよく光沢(つやけ)の無い茶色な髪の娘に逢う。』
情の深い家に生まれ、14歳で亡くなった父親も外に女がいたし、3番目の兄は母が不義をして産んだとのことです。
藤村自身も、妻に先立たれた後、身の回りの世話をしてもらっていた、兄の娘と関係を持ち、子供を産ませてしまいます。
その後、藤村は、最初の妻との間の子供と関係を持った姪、その赤子のすべてを見捨てて、単身フランスに渡ってしまいます。
とんでもないですな。
小説の題材は、すべて身内の出来事から採っています。当然、姪と関係を持ってしまった顛末も題材にしています。
長姉は、遊び人であった夫に梅毒を移され、そのために発狂してしまうのですが、それすら小説にしています。
絶対に身内にいて欲しくないですね。
閑話休題。
本書はエッセイですので、身近な出来事の素描が多く、素直に読める文章が多いのですが、一つだけ引っ掛かりました。
私は盛んな青麦の香りを嗅ぎながら出掛けて行った。右にも左にも麦畑がある。風が来ると、緑の波のように動揺する。その間には、麦の穂の白く光るのが見える。こういう田舎道を歩いて行きながら、深い谷底の方で起る蛙の声を聞くと、妙に私は圧しつけられるような心持ちになる。可怖ろしい繁殖の声。知らない不思議な生物の世界は、活気づいた感覚を通して、時々私たちの心へ伝わって来る。
生殖行為は、生命の発露であり、喜びを伴うものだと思うのですが、それを『可怖ろしい(おそろしい)』と感じてしまうのです。
藤村が囚われていた情念の深さを見たような気がします。
旧いものを毀そうとするのは無駄な骨折りだ。ほんとうに自分等が新しくなることが出来れば、旧いものは既に毀れている。
旧態依然とした告示前の活動が続いています。
前町長側からの巻き返しもあり、情勢は予断を許しません。
しかし、候補者の名前と写真を変えてしまえば、どちらのパンフレットか分からないような選択ではないのです。
安穏として良いとは思っていませんが、合併問題以外の争点はないと思うのです。
甘いですかね。