智恵子抄


智恵子抄
高村光太郎の芸術作品について誰よりも理解者であったのは妻の智恵子であった。

二人はお互いを愛し慈しみ、良き伴侶として幸福であったのだと思う。


情熱のほとばしる恋愛時代から、短い結婚生活、夫人の発病、そして永遠の別れ……智恵子夫人との間にかわされた深い愛を謳う詩集。

彼女の生前、私は自分の制作した彫刻を何人より先に彼女に見せた。一日の製作の終わりにも其を彼女と一緒に検討することが此上もない喜であった。又彼女はそれを全幅的に受け入れ、理解し、熱愛した。私の作った木彫小品を彼女は懐に入れて街を歩いてまで愛撫した。彼女の居ないこの世で誰が私の彫刻をそのように子供のように受け入れてくれるであろうか。


私の生(いのち)を根から見てくれるのは

私を全部に解してくれるのは

ただあなたです

出会った頃、新婚の頃の詩には、愛し合う若者の悦びが溢れている。


をんなは多淫

われも多淫

淫をふかめて往くところを知らず

万物をここに持す

われらますます多淫

地熱のごとし

烈烈


ああけれども

それは遊びぢやない

暇つぶしぢやない

充ちあふれた我等の余儀ない命である

生である

力である

浪費に過ぎ過多に走るものの様に見える

八月の自然の豊富さを

あの山の奥に花さき朽ちる草草や

声を発する日の光や

無限に動く雲のむれや

ありあまる雷霆や

雨や水や

緑や赤や青や黄や

世界にふき出る勢力を

無駄づかひと何うして言えよう

...

愛する心のはち切れた時

あなたは私に会ひに来る

すべてを棄て、すべてをのり超え

すべてをふみにじり

嬉嬉として


しかし智恵子は心労が重なり、次第に狂気を増していく。

その有様を見つめているしかない箇所にはたまらない切なさを感じる。


半ば狂へる妻は草を藉いて座し

わたくしの手に重くもたれて

泣きやまぬ童女のやうに慟哭する

− わたしもうぢき駄目になる


ついに発狂してしまった智恵子は、恢復することなく息を引き取る。


その数滴の天のものなるレモンの汁は

ぱつとあなたの意識を正常にした

あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ

わたしの手を握るあなたの力の健康さよ

あなたの咽喉(のど)には嵐はあるが

かういふ命の瀬戸ぎはに

智恵子はもとの智恵子となり

生涯の愛を一瞬にかたむけた


おそらくレモンで正常に戻ったというのは、悲しい幻想であっただろう。

しかしそうした幻想を見てしまったことで一層同情してしまう。


死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は

十年の重みにどんより澱んで光を葆み、

いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ

ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、

これをあがつてくださいと、

おのれの死後に遺していつた人を思ふ


或る偶然のことから、満月の夜に、智恵子はその個的存在を失うことによって却って私にとっては普遍的存在となったのであることを痛感し、それ以来智恵子の息吹を常に身近に感ずることが出来、言わば彼女は私と偕にある者となり、私にとっての永遠なる者であるという実感の方が強くなった。


あなたはまたゐるそこにゐる

あなたは万物となつて私に満ちる

私はあなたの愛に値しないと思ふけれど

あなたの愛は一切を無視して私をつつむ


高村光太郎は、智恵子という理解者を伴侶に得たことで、芸術家の孤独を癒やされることができた。

それは彼にとって幸福なことではあった。しかしそれは芸術作品を造る上で良い方に働いただろうか。

ひとり孤独と対峙することで、より芸術性が高まったのではないだろうか。

愛の詩集を遺すことはできたが、それは彫刻家としての高村光太郎にとってはマイナスであったと思う。

こんなに愛し合い、狂ってからも死してからも愛された智恵子は幸せであっただろう。

でも何となく胡散臭さを感じてしまうのは、僕がもう現実に汚染されているからかな。