デモクラシーの冒険
出張中に立ち寄った書店で手に取った新書を読了しました。
買って読んでいない本が山のようにあるのに購入してしまったのは、カバーにあるコピーに惹かれたからです。
1100万人を超える人類史上最大の反戦運動もむなしく、アメリカとその同盟国は、ついにイラク攻撃に乗りだします。デモクラシーを高らかに謳いあげる国々による圧倒的な暴力は、人々の意志が政策に反映されることのない絶望的な光景を、かえって浮き彫りにしました。
果たして、政治はひと握りの人間によって決定され、他の者たちは粛々とそれに従うほかないのでしょうか。
日本とオーストラリアに住んでいながら、そこに国籍のない碩学二人による対談です。
冒頭、対談をおこなうにあたっての問題提起があります。
自分たちが暮らしているこの世界をより良い方向に変えていくことは、もはやできないのではなかろうか。
「すばらしき新世界」たる21世紀においては、誰もが反戦の意思を表明することが許される一方で、権力者はそれを無視します。この悪夢から抜け出すすべは、本当にないのでしょうか。
自分や家族や地域のことを考えて、進められている合併に異を唱え、住民投票を要求しても、首長や議会はそれを無視します。
たまたま情勢が変わって住民投票がおこなわれ、これまで主張してきた方向に進められることになりました。
それは良かったのですが、どうも納得いかなかったのです。
僕のやってきたことは、徒労に過ぎなかったのか。何も意義はなかったのか。
本書では民主主義が形式だけの「擬似民主主義」となっている現状について論評しています。
デモクラシーとは与えられるものではなく、能動的に関わっていくものであること。
そのためには、ワンフレーズポリティックスのような欺瞞に騙されることなく、自分自身で判断して行動しなくては、デモクラシーを維持することはできないのです。
デモクラシーの基本は、自分たちの暮らしにとって非常に重大な決定をしなければならない際に、その根本にある問題をきちんと議論するところにあるわけですよね。あるいは、自分たちの決定によって、誰かに多大な影響を与える場合もそうです。議論を通じて、より理性的な回答を引き出していくことが重要です。でも、大新聞やマスメディアの質問内容は、重要な議論が抜け落ちているし、実際の政治の場でも、議論は多数派を形成するためや、あらかじめ密室で決められた方針を正当化するためだけにあるのです。。
現実が恐ろしく複雑であるにもかかわらず、それを単純明快なわかりやすさに置き換えるレトリックにはいつも疑いの眼差しを忘れてはならない。
共同体の問題で複雑さを免れる問題なぞ一つとしてない。
テレビなどの映像メディアが、実は操作や幻想、偽造などの影響を及ぼしやすいものである点を片時も忘れないことである。映像は決して嘘をつかないのではなく、そうした影響に絶えず晒されている自分を予め理解しておくことが重要だ。
情報の「目利き」がなければ、たちまち「観客民主主義」の「消費者」に転落する。
技術の進歩により生活水準は飛躍的に向上し、人類が飢えや寒さに苦しむことは少なくなりました。
しかしそれは同時に村落共同体では賄いきれないレベルの社会基盤や専門能力が必要となるわけです。
そうして、それまで村落共同体が持っていた意志決定権が失われることになったのです。
さらに現在では、さらに複雑化専門化が進み、行政レベルは市町村単位でも担えないほどになっています。
その認識が今回の合併にあたっての僕の主張であったのです。
本書では、イラク戦争にあたって反戦運動がなんら影響力を及ぼすことがなかったという失望が出発点になっています。
政治面では、アメリカの覇権により他の国がアメリカの意向を止めることができなくなったという危うさがあります。
それは、徴兵制を切っ掛けにして成立した国民国家が決定権を失いつつあるということです。
アメリカ以外の国の選挙民は、自分の国の政策を決めることができないのです。
イラク戦争最大の問題は、グローバルな規模におけるアメリカの軍事力の行使が、アメリカの選挙民の判断にのみゆだねられている点だった。
政治面に限らず、経済面でもグローバリゼーションの進展に伴って、国家が関与できる領域はどんどん狭まっています。
あわせて、フォーディズムの終焉と新分業体制の確立により労働組合も弱体化し、僕の生業である企業情報システムの整備により、企業の力はますます強くなっています。
しかし、複雑な現実に怯んだり逃げ出したりすることなく、その複雑さに耐えるだけの勇気を持たなければいけません。
そうしなければ、現実に関与することのない傍観者に転落してしまうのです。
たくさん紹介したい箇所がありますが、後日別のトピックを論評する際に引用することとします。
政治や民主主義、歴史に興味のある方にはお薦めです。