「遠野物語」柳田国男


遠野物語―付・遠野物語拾遺
遠野物語』を読みました。

日本民俗学の草分けである柳田国男が書き記した名作です。


ザシキワラシなどの神様や、女を攫う山人、天狗や河童、猿の経立(ふったち)や御犬(おおかみ)の経立などの化け物が紹介され、遠野で起こり噂で有名になった事件などが淡々と収録されています。


かつての岩手県遠野は、山にかこまれた隔絶の小天地で、民間伝承の宝庫だった。柳田国男は、遠野郷に古くより伝えられる習俗や伝説、怪異譚を丹念にまとめた。その幅広い調査は自然誌、生活誌でもあり、失われた昔の生活ぶりを今に伝える貴重な記録である。日本民俗学を開眼させることになった「遠野物語」は、独特の文体で記録され、優れた文学作品ともなっている。


取り上げられている逸話には、馴染みのある題材が多く、楽しんで読みました。

迷信だと笑ってしまうのは簡単ですが、近代科学の合理性の掌では掬い取れない事象が現実にはあります。

栄枯盛衰など、限られた知識や情報では説明できない理不尽なことに対して、一応の説明を与えることによって、安心を得ることができたのだと思います。

初版金枝篇 (上)
まじないなどの迷信には、フレイザー金枝篇にあるように、関連無き事柄の間に因果を結ぶことが根底にあります。

ユングが提唱した「共時性(Synchronicity)」の概念も近代科学ではなく、下手すると、まじないなどの民間伝承に近くなってしまいますね。

いずれ人類の知識が発達してくれば、現在では呪術迷信のような事柄にも合理的な説明がつくのでしょうが、すべてが収まりのいい小綺麗な文明よりも、ちょっといい加減で胡散臭いところのある社会の方が暮らしていて面白いのではないかと思います。


松岡正剛の千夜千冊『シンクロニシティ』ディヴィッド・ピー



本書は民俗学的な価値もあるのでしょうが、文章が素晴らしいです。このようなリズム感のある文体に接すると、日本人が失った能力を実感し、残念に思います。


昨年の八月の末自分は遠野郷に遊びたり。花巻より十余里の路上には町場三か所あり。その他はただ青き山と原野なり。人煙の希少なること北海道石狩の平野よりもはなはだし。



高処より展望すれば早稲まさに熟し、晩稲は花盛りにて水はことごとく落ちて川にあり。稲の色合いは種類によりてさまざまなり。三つ四つ五つの田を続けて稲の色の同じきは、すなはち一家に属する田にして、いわゆる名処の同じきなるべし。



天神の山には祭りありて獅子踊りあり。ここにのみは軽く塵たち、紅き物いささかひらめきて一村の緑に映じたり。



盂蘭盆に新しき仏のある家は、紅白の旗を高く掲げて魂を招く風あり。峠の馬上において東西を指点するに、この旗十数か所あり。村人の永住の地を去らんとする者と、かりそめに入り込みたる旅人と、またかの悠々たる霊山とを黄昏は徐に来たりて包容しつくしたり。


柳田国男が旅した時に遠野で見た、盂蘭盆の情景を紹介していますが、後に書いたエッセイでも盂蘭盆を挙げて日本人の精神を論じています。


弘い世界の中でも、我々日本人の来世観だけは、少しばかり余所の民族とは異なつて居た。もとは盆彼岸の好い季節毎に、必ず帰つて来て古い由緒の人たちと、飲食談話を共にし得ることを、信じて世を去る者が多かつただけで無く、常の日も故郷の山々の上から、次の代の住民の幸福をじつと見守つていることが出来たやうに、大祓の祝詞などにははつきりと書き伝へて居る。乃ち雲はいつまでもこの愛する郷土を離れてしまふことが出来なかつたのである。


祖先を敬い、郷土を愛することによって、かつての日本人は精神の安定を得ることが出来たのではないかと思います。

現在では、かつての社会より生産性が向上し、豊かな暮らしを享受できるようになったのですが、精神的な満足度は却って下がっているのではないかと感じます。