日本の面影(ラフカディオ・ハーン)


ラフカディオ・ハーンの作品集『新編 日本の面影』を読みました。

以前、怪談を読んで、日本の風土を美しく表現した内容に感銘してから、別の作品を読みたかったのです。


帯には『ハーンが見いだした美しい日本の原風景』とあります。

元々日本を外国に向けて紹介するために英語で書かれた作品です。

現在ではほとんど失われてしまった、日本の街並みや風俗、風習などを丹念に描写しています。


『日本の面影』は『怪談』とともに作家ハーンの名を不朽にした代表作である。

ハーンのアメリカ時代と日本時代のすべての著作のうちで、どれが一番すぐれているかという話になると、まっ先に『怪談』を挙げる人が多いが、ハーンの日本理解・日本観察ということになると、『日本の面影』を推す愛読者も相変わらずたくさんいる。


日本に傾倒し客死したハーンらしく、本作には『おもはゆくなるようなナイーブな日本賛美』があります。


日本人の生活の類まれなる魅力は、世界の他の国では見られないものであり、また日本の西洋化された知識階級の中に見つけられるものでもない。どこの国でもそうであるように、その国の美徳を代表している庶民の中にこそ、その魅力は存在するのである。その魅力は、喜ばしい昔ながらの慣習、絵のようにあでやかな着物、仏壇や神棚、さらには美しく心温まる先祖崇拝を今なお守っている大衆の中にこそ、見出すことができる。もし外国人の観察者が、運良くその生活の中に入ることができ、共感できる心を持っていたなら、それこそ、それは飽きることのない生活であり、そしていつしか、傲慢な西洋文明の進歩がこのような方向性でいいものか、疑わずにはいられなくなるであろう。

日本の生活にも、短所もあれば、愚劣さもある。悪もあれば、残酷さもある。だが、よく見ていけばいくほど、その並はずれた善良さ、奇跡的と思えるほどの辛抱強さ、いつも変わることのない慇懃さ、素朴な心、相手をすぐに思いやる察しの良さに、目を見張るばかりだ。


日本に着いたばかりのハーンは、街を人力車で廻り、小さな瓦葺きの屋根や、紺地に屋号や意匠が白く抜かれた幟(のぼり)や暖簾などの細やかさに感嘆します。

まるでなにもかも、小さな妖精の国のようだ。






寺へ参拝し僧から本尊を拝ませてもらったときのことです。


私は渦巻き状の蝋燭立てが並べてある須弥壇の上に、ご本尊を探した。しかし、そこに見えたのは鏡だけであった。よく磨かれた金属の青白い円盤の中に、私の顔が映っている。そして、その私らしき鏡像の後ろには、遠い海の幻影が広がっていた。
..
私は、自分が探しているものを、私以外の世界に、つまり、私が心に思い描く空想以外のところで、見つけることができるのだろうか。私にははなはだ怪しく思われた。


幼くして母と別れ父に死別し、長じてからは世界を遍歴し日本へとやってきたハーンの心情が現れていると思います。




作品の一つである「日本人の微笑」は、欧米人が不可解に感じる日本人の微笑について、ハーンなりの説明をおこなったエッセイです。

すでに日本人を妻に迎えて日本の生活にどっぷりとはまっていたハーンは、日本の友人より訊かれます。

『外国人たちはどうして、にこりともしないのでしょう。あなたはお話しなさりながらも微笑を以って接し、挨拶のお辞儀もなさるというのに、外国人の方が決して笑顔を見せないのは、どういうわけなのでしょう』

逆に、外国人の友人より日本人の微笑に疑問を挙げられてしまいます。

『私には、どうもあの日本人の微笑というやつが理解できないのです。』



それに対してハーンはこう答えています。


日本人は死に直面したときでも、微笑むことができる。死を前にして微笑むのも、その他の機会に微笑むのも、同じ理由からである。



日本人の微笑は、念入りに仕上げられ、長年育まれてきた作法なのである。



相手にとっていちばん気持ちの良い顔は、微笑している顔である。だから、両親や親類、先生や友人たち、また自分を良かれと思ってくれる人たちに対しては、いつもできるだけ、気持ちのいい微笑みを向けるのがしきたりである。そればかりでなく、広く世間に対しても、いつも元気そうな態度を見せ、他人に愉快そうな印象を与えるのが、生活の規範とされている。たとえ心臓が破れそうになっていてさえ、凛とした笑顔を崩さないことが、社会的な義務なのである。

反対に、深刻だったり、不幸そうに見えたりすることは、無礼なことである。好意を持ってくれる人々に、心配をかけたり、苦しみをもたらしたりするからである。

日本人のように、幸せに生きていくための秘訣を十分に心得ている人々は、他の文明国にはいない。人生の喜びは、周囲の人たちの幸福にかかっており、そうであるからこそ、無私と忍耐を、我々のうちに培う必要があるということを、日本人ほど広く一般に理解している国民は、他にあるまい。





作品集では、様々な見聞が紹介されていますが、西欧文明を取り入れて、急速に欧米化が進み、古い風俗を失っていく日本を惜しんでいます。


私はすでに自分の住まいが、少々気に入りすぎたようだ。毎日学校の勤めから帰ってくると、まず教師用の制服からずっと着心地の良い和装に着替える。..壊れかけた笠石の下に厚く苔蒸した古い土塀は、町の喧噪さえも遮断してくれるようだ。聞こえてくるものといえば、鳥たちの声、かん高い蝉の声、あるいは長くゆるやかな間をあけながら池に飛びこむ蛙の水しぶきだけである。

いや、あの塀は往来と私とを隔てているだけではない。塀の向こう側では、電信、新聞、汽船といった変わりゆく日本が、唸り声をあげている。しかしこの内側には、すべてに安らぎを与える自然の静けさと十六世紀の夢の数々が息づいている。大気そのものに古風な趣が漂っており、辺りには目に見えないなにか心地よいものが、ほのかに感じられる。

...

しかし、この家中屋敷もこの庭も、いずれはすべてが永遠に姿を消してしまうことになるだろう。

...

出雲だけではない。日本国中から、昔ながらの安らぎと趣が消えてゆく運命(さだめ)のような気がする。ことのほか日本では、無情こそが物事の摂理とされ、変わりゆくものも、それを変わらしめたものも、変わる余地がない状態にまで変化し続けるのであろう。


松江から熊本へ赴任する際、最後に生徒たちに話したことが載っています。


現代は、急速に大きく変化を遂げています。これからの成長過程では、ご先祖の信じてきたことをすべて鵜呑みにするわけにはいかない、と思うことも、多くなるでしょう。それでも先祖の思い出を今なお尊重しているように、少なくとも祖先への信仰だけは忘れないでいてくれることを、心より信じています。ともかくあなた方の周辺で、どんなに新しい日本が変わろうとも、皆さんのものの考え方が時代とともにいかに移り変わろうとも、あなた方が聞かせてくれた、あの気高い望みだけは、どうぞ失わないで下さい。神棚に灯る小さな灯明のように、どうかその心の中にその明かりを、清らかに明々と灯し続けていただきたい。

明治初期にハーンが惜しんだ古い風俗は、残念ながら現在ではあまり残っていません。日本人の精神性も大きく変わってしまいました。

古い風習を蔑み、極端な個人主義に走ったあげく精神の安定を欠いてしまっているのが、現代の日本社会が抱える問題の根底にあります。

今でも残っている、死者を悼み、先祖を尊崇する風習を始めとして、ハーンの愛した日本人の美徳を誇り、大切にしなければと思います。