I have a dream(私には夢がある)


私には夢がある―M・L・キング説教・講演集
本書はマーチン・ルーサー・キング(以下キング牧師)の説教・講演集です。

全てのページが彼の強い信念に基づいて記述されており、背筋を伸ばして声に出して読んでしまいます。

本当に素晴らしい本です。全人類が読むべき本だと思います。


1955年にアラバマ州モンゴメリーで黒人女性が投獄されたことに抗議することから、キング牧師の人種差別に対する闘争が始まりました。

当時、黒人はバスの席を白人に譲らなければいけないという慣習があり、投獄された女性は席を譲らなかったというだけで逮捕され、有罪判決を受けたのです。


皆さん、私たちが抑圧の鉄の足で踏み躙られることにうんざりする時がやってきたのだ。

私たちが屈辱の深い谷間に投げ込まれ、孤独の絶望感にさいなまれることにうんざりする時がやってきたのだ。

私たちがきらきら輝く人生の7月の陽光から追い出され、身を切られるアルプスの11月の寒さのまっただ中に立たされることにうんざりする時がやってきたのだ。

その時がやってきた。私たちがここに集まったのは、うんざりしたからだ。

愛の傍らには常に正義がある。そして私たちは今はただ正義の手段を用いている。

私たちはただ説得の手段を用いるだけではなく、強制の手段をも用いなければいけないことを知るに至った。

これは教育の過程であるだけでなく、立法の過程でもある。


愛を語る者は、日本の文化ではどこか浮ついて現実離れした理想主義者と取られることがありますが、キング牧師の視点はあくまで現実的です。


まず第一に、抑圧者は決して自発的に非抑圧者に自由を与えることはないということだ。そのためには皆さんが戦わなければならないのである。...自由は決して誰かに与えてもらうものではない。...特権階級は強力な抵抗なしにその特権を放棄することは、決してしないのである。

...どうかモンゴメリー市行政委員会や南部の支配勢力が、結局は黒人のためにこのことをやってくれるだろう、それは必然性の輪に乗って転がり込んでくるなどと考えながら帰宅するようなことはしないで欲しい。

もし我々が自然とうまくいくだろうと拱手傍観するようなら、そんなふうには絶対にならないのである!


黒人差別を撤廃させるために、キング牧師は非暴力抵抗運動をおこないます。

それは、黒人が座ってはいけないとされていたカウンター席に勝手に座り、殴られたり叩き出されたりしても抵抗せず、また店に入って座るようなことです。抗議活動は暴力を伴わないデモ行進や商品不買などのボイコット運動を通しておこないます。


ガーナはまたわれわれにもう一つのことをも教えている。それは一つの国家なり一つの民は暴力なしに抑圧から自由になることが出来るということである。...われわれは、反乱が終わった時にはその人々と兄弟姉妹として共に生きることが出来るような仕方で、反乱を起こさなければならない。...非暴力の余波は愛の共同体の創造である。非暴力の余波は贖(あがな)いである。非暴力の余波は和解である。だが暴力の余波は空しさと怨恨である。


狭い了見でなく、広い愛を持ってキング牧師は彼の敵に対しても愛を持って臨みます。


わが友たちよ、われわれの目標はエンゲルハート氏を打ち負かすことではない。セラーズ氏やゲイル氏を打ち負かすことではない。われわれの目標は彼らの中にある悪を打ち負かすことでなければならない。

われわれの目標はゲイル氏とセラーズ氏とエンゲルハート氏の友情を勝ち取ることでなければならない。

すべての人々が神の下で兄弟姉妹として生きることがわれわれの目標であって、われわれが彼らの敵とかその類のものになることではないということを理解するようにならなければならない。

われわれは決して、われわれの勃興しつつある自由と育ちつつある力を、白人少数者に対して、何世紀にもわたってわれわれが受けてきたのと同じことをするために用いてはならない。

われわれの目標は決して、白人を打ち負かしたり辱めることではない。

われわれは黒人が優越しているという哲学の犠牲に陥ってはならない。

神は単に黒人や褐色人や黄色人を解放することにだけ関心を持っておられるのではなく、全人種を解放することに関心を持っておられるのである。

われわれは断固として次のような社会を作り出していかなければならない。すなわちそこでは黒人が優越していて他の人々は劣等であるとか、あるいはその反対であるとかいうのではなく、すべての人々が兄弟として共に生き、人間としての人格の尊厳と価値を尊重し合うような社会をである。


非暴力抵抗運動とは、現場に出ないインテリが言う机上の空論ではなく、力強く現実に影響を及ぼすものです。


われわれは非暴力の力を理解しているからである。われわれはこの方法は弱々しいものではないと理解している。

なぜなら反対のただ中で立ち上がることができる人は、つまり暴力が自分の上に加えられるただ中で立ち上がり、しかも自分は暴力で仕返しをしない人は強い人であるからだ。

...もし打ちのめすようなら、あなたは報復することなしに、それを受け入れる静かな勇気を発揮するのである。

..もし投獄するようなら、あなたは入獄して、そこを恥の地下牢から自由と人間的尊厳の港に変えるのである。

そしてたとえ彼があなたを殺そうとしても、あなたは死に値するような何か高貴な物、何か永遠に真実な物があることを信じられるような、内的確信を開発するのである。ここで私は申し上げたい。もし人がそのために死ぬような何かを発見しないとすれば、彼は生きるのに値しないのだと。

ベトナム戦争に反対する立場で政府の方針を批判するキング牧師の演説も素晴らしいです。


価値観の真の革命とは、...海の向こうに目を向け、欧米の資本家たちがアジア、アフリカ、南アメリカに膨大な金を注ぎ込みながら、それらの国々の社会状況の発展に何ら貢献しようともせず、利益のみを得ようとしているのを見て憤り、「これは正義ではない」と断言することである。アメリカが南アメリカの大地主と結託しているのを見て、「これは正義ではない」と言い切ることである。他国は自分からすべてを学ぶべきだが自分は他国から何も学ぶ必要がないとする欧米流の傲慢な考えは正しいものとは言えない

人々を244年も奴隷に押しとどめた国は、彼らを「物化」し、物にしてしまうであろう。そしてそれゆえ彼らは、貧しい人々を経済的に搾取していくようになるであろう。

さらに経済的に人々を搾取する国は、外国投資やその他何でもするようになり、それらを守るために軍事力を用いていくようになるだろう。

これらの問題はすべて絡み合っているのである。私は今日申し上げたい。

われわれはこの年次大会から出て行ってこう言わねばならない。アメリカよ、あなたは生まれ変わらねばならない」と。


キング牧師の演説でもっとも有名なのは、本書の題名にもなっている『私には夢がある(I have a dream)』です。


だから私は今日あなたがたに申し上げたい。今日も、そして明日もわれわれが困難に直面するとしても、私にはなお夢があるのだということを。それはアメリカの夢に深く根ざした夢である。

すなわち、いつの日かこの国が立ち上がって「我らは、これらの真理を自明のものとして承認する。すなわち、すべての人は平等につくられ...」というあのわが国の信条の持つ真の意味を生きるようになるであろうという夢である。

私には夢がある!いつの日かジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が、兄弟愛のテーブルに仲良く座ることができるようになるという夢が!

...私には夢がある!今は小さな私の4人の子供たちが、いつの日か肌の色ではなく内なる人格で評価される国に住めるようになると言う夢が。私には夢がある!

私には夢がある!悪意ある人種差別主義者や、「介入」とか「無効化」という言葉で唇をぬらしている州知事がいるアラバマ州でさえ、いつの日か幼い黒人の少年少女が、幼い白人の少年少女と手に手をとって姉妹兄弟となることができるという夢が。

私には今日、夢がある!


この演説はインターネットで聴くことができます。非常に迫力があり拝聴されることを勧めます。

American Rhetoric: Martin Luther King, Jr. - "I Have a Dream"


1964年にキング牧師は、公民権運動における非暴力主義を評価されてノーベル平和賞を受賞します。

しかし、その4年後にまだ道半ばで暗殺されます。前日におこなった演説では暗殺を予感させることを言っています。


神は私を山の頂まで登らせてくれた。頂から約束の地が見えた。

私自身は皆さんと一緒には約束の地に行けないかもしれない。

でも知ってほしい。私たちは一つの民として約束の地に行くのだということを。


白人の人種差別主義者によって協会が爆破され、幼い少女4人が命を落とした事件の葬式でキング牧師が告別の辞を述べていますが、それは、キング牧師の弔辞にも相応しいものだと思います。


皆さんの子供たちにとって、この世での生命は長くなかった。しかし、それは見事な生涯であった。

その生命は量からすれば痛ましいほど僅かであったが、質からすれば驚くほど高いものであった

少女たちが亡くなった場所や、死に臨んで為した偉業は、親である皆さん一人ひとりの胸に素晴らしい証として生き続けるであろうし、また彼女たちを永久に思い起こす記念碑ともなるであろう。


「良い人は早く神様が呼ぶ。ろくでなしはいつまでも呼ばれないのだ。」と言います。

キング牧師の死は人類社会全体にとって大きな損失でした。

もし生きておられたら、京都議定書を批判するアメリカ政府やイスラエルパレスチナ情勢やイラク戦争についてどう説教されたでしょうか。

彼が神様に呼ばれた今、僕らにできることはキング牧師という辞書を引くことで、自問自答することだけです。

しかし、彼が残した思想は、人類普遍のものとして長く受け継いでいくべきものです。

享年39歳。今の僕と同じ歳です。