愛人(ラマン)


フランスの女性作家、マルグレット・デュラスの自伝的小説です。

フランスの植民地だったインドシナ、なかでもサイゴンホーチミン市が舞台となります。


十八歳でわたしは年老いた−

あの青年と出会ったのは、靄にけむる熱い光のなか、メコン河の渡し船のうえだった。すべてが、死ぬほどの欲情と悦楽の物語が、そのときからはじまった...。

仏領インドシナを舞台に、十五歳のときの金持ちの中国人青年との最初の性愛経験を語った自伝的作品。


愛人(ラマン)
最初に断っておきますが、エロ描写を期待して読むとガッカリします

主人公である「わたし」の一人称が突然「彼女」や「娘」といった三人称に変化したり、過去のことなのにいつの間にか未来形に変化してしまいます。その文体によって、醒めた視点と切ない心情が入り交じり、早熟な少女の儚さ(はかなさ)をうまく表現しています。

すこしは本を読むことに慣れていないと、変化についていけずに混乱すると思います。

残念ながら、多感で早熟な少女だったことは一度もないので、主人公には感情移入できませんでした。

異性を強く意識し出す中学生、高校生の頃、同級生の女の子は僕らの先輩とつき合うようになります。僕らが三年生になると今度は下級生の女の子とつき合うようになりました。同級生同士でつき合うこともありますが、男女の歳が逆転するケースはほとんどありません。

それは、学校の中での先輩後輩関係と言ったヒエラルヒーの問題もありますが、女の子の方が早熟だという要因の方が大きいです。

中でも頭が良く、早熟で美しい女の子のことを僕は好きでした。だいたいそういう女の子は人気があり、競争が激しく、首尾良くつき合うことができたとしても、やがて圧倒されて振られてしまうのでした。わはは。今となっては苦みのある良い思い出です。

性愛の相手で、捨てられたような構図になる中国人青年の方に感情移入してしまったのは、そのためでしょう。

脱線してしまいました。本の内容に戻ります。


性的な表現はありますが生々しくないため、欲情したり嫌悪感を持つことはありません。

むしろ家族との愛憎が彼との性愛をしのぐほどの分量と激しさで描写されていて読み応えがあります。ただでさえ頭の良い少女にこんな本を読ませてしまったら、同世代の男子は太刀打ちできないでしょう。


彼女は男に言う、あなたがあたしを愛していないほうがいいと思うわ。たとえあたしを愛していても、いつもいろんな女たちを相手にやっているようにして欲しいの。男は愕然としたように、まじまじと彼女を見つめる、男はたずねる、それがおのぞみなんですか?彼女は、ええ、と言う。


やがてわたしは指に婚約のダイヤモンドをはめるだろう。それで舎監たちはもうわたしに小言を言わないだろう。わたしが婚約をしていないんじゃないかと思うかもしれないけれど、それにしてはひどく高価なダイヤモンドであり、だれひとりとしてそれが本物であることを疑わず、まだ年若い娘にあたえられたダイヤモンドの値打ちゆえに、だれももう何も言わないだろう。


過去のことでありながら、近い将来の予測であるかのような文体です。

僕は、次に引用する三人称の醒めた文体、不安定な時制にシビレました。第三者から見た描写であるかのように突き放すことにより、却って彼女の激情と寂しさを浮き彫りにしています。


それから男は濡れたままの彼女をベッドの上まで抱きかかえてゆくだろう、男は扇風機をつけるだろう、そして彼女に接吻するだろう、口をつぎつぎといたるところへ這わせて、そして彼女はまたやって、もっとやってといつもせがむだろう、その後で彼女は寮に戻っていくだろう、そしてだれひとりとしていないのだ、彼女を罰する者は、彼女を打つ者は、顔が歪むくらい殴る者は、罵る者は。


しかし彼女が支配階級であるフランス人であるため、彼が富豪華僑のひとり息子であるため、そして彼女がまだ若すぎるため、結婚はあきらめます。彼は父親の反対を押し切ってまで結婚したいと言うのですが、彼女の方から拒絶してしまうのです。

ああ、かわいそうな彼。わかるぞ。うんうん。


彼らふたりはもはや断じてその話をしない。彼はもはや彼女と結婚するために、父親に何ごとかを試みることはまったくないだろう、それは了解ずみのことだ。

ショロンの男は、父親の決意とこの娘の決意とは同じであり、どうにも変えようがないと言うことを知っている。どうやら彼も、やがて彼女がこの地を発って自分から引きはなされる日が、ふたりの物語に訪れそうだということを何とか了解しはじめる。


近い将来に分かれることを了解してから、二人は一段とセックスに耽り、離れがたくなってしまいます。


彼は言う、この国で、この耐えがたい緯度で何年もの年月をすごしたために彼女はこのインドシナの娘になってしまった。この国の娘たちのようなほっそりとした手首をしているし、この国の娘たちの髪と同じように、まるで張りのある力のすべてを引き受けて身につけてしまったかのような、濃く、長い髪をしている、とりわけこの肌、全身の肌といったら、この国で女や子供たちのために取っておく雨水を使っての水浴を経験してきた肌だ。

ショロンの愛人は白人の娘の思春期のみずみずしさに、ほどんど破滅せんばかりになじんでしまった。彼が毎晩娘の体に味わう悦楽は、彼の時間、彼の人生を巻き込んだ。


この娘といることが幸福なのです。それを失うくらいなら、彼は破滅したいのです。

ただ彼はあまりにも幸福なので、自ら破滅という手段を取ることは思いも寄らないことなのでしょう。


男は娘に言う、よかったね、フランス船がもうすぐやって来て、きみを連れていってしまうよ、ふたりを引きはなしてしまうんだよ。道のりのあいだ、ふたりは黙りこくっている。ときどき男は運転手に河に沿って進んでひと回りしてくれと頼む。娘は疲れ切って、男に身を寄せかけたまま眠ってしまう。男は接吻で起こしてやる。


そして彼女は家族とフランスに帰ることになります。


船が最初の別れの声をあげて、懸け橋があげられ、タグボードが船を曳いて大地から引きはなしはじめたとき、彼女も泣いた。涙を見せずに泣いた。彼が中国人で、そんな種類の愛人に涙をそそいではならぬときまっていたからだ。

彼の大型自動車が来ていた。...自動車はフランス郵船会社の駐車場からすこしはなれたところに、ぽつんと一台だけ停っていた。

...彼女にはあの車だと分かった。ほとんど見えぬあのかたち、それが後部座席の彼だった、打ちのめされ、身動きひとつしなかった。


彼女の悲しさも分かりますが、具体的な悲しみの描写が抑えられている、彼の悲しみが深く分かりました。

ずっと時間が経ってからエピローグが流れます。


男は女に電話した。ぼくだよ。女は声を聞いただけでわかった。男は言った、あなたの声が聞きたかっただけでした。女は言った、あたしよ、こんにちは。男はおどおどしていた、以前のように怯えていた。


次いで、男はそのことを女に言った。男は女に言った、以前と同じように、自分はまだあなたを愛している。あなたを愛することをやめるなんて、けっして自分にはできないだろう、死ぬまであなたを愛するだろう。


こんな事をかつて愛した相手に言われたら、どんなに嬉しいでしょうか。え?相手による?失礼しました。

良い本でした。舞台となったフランス植民地時代の建物が残るホーチミン市を思い出しながら読みました。再読する価値はあると思います。