わしの眼は十年先が見える―大原孫三郎の生涯


わしの眼は十年先が見える―大原孫三郎の生涯
先日、新潟市万代島美術館でやっていた「大原美術館展」に行ってきました。

大原美術館は、倉敷にある日本でも有数の近代美術館です。

やっぱり実物は迫力あるなぁと感心しました。

近代美術から現代美術までの傑作を展示してありました。


個人的には、ムンクの「マドンナ」と白髪一雄の「赤壁」が特に良かったです。



「マドンナ」は、女性の持つ闇の部分を特有のタッチで見事に描いています。

子供が見たら、夜トイレに行けませんな。



赤壁」は、中国の三国時代にあった有名な戦闘をモチーフにしています。

大きなキャンバスに油絵の具を盛り上げて描いています。なんでも足で描いたとか。

力強い太い線は龍のようです。

大きな黒龍曹操軍、中央を貫く赤龍は孫権軍、左上から暴れている黄龍劉備軍でしょうか。

しばし見入ってしまいました。


ミュージアムショップで大原美術館を創設した、大原孫三郎の伝記を売っていました。

前から読んでみたいと思っていたので、購入して読了しました。おもしろかったです。


父孝四郎のはじめた倉敷紡績を引き継いだのは、孫三郎二十七歳、明治三十九年(1906年)のことである。

地方の一紡績会社にすぎなかったものを、そのあと孫三郎は日本で指折りの大会社に成長させる。

さらに、倉敷絹織(いまのクラレ)を設立。国産技術を使って、こちらも大会社への道を歩ませる。

他にも、中国銀行の初代頭取となり、中国電力の創設にかかわるなど、事業家としてダイナミックな足跡を残すことになる。


成功した実業家であると同時に、社会にも深く関わり、孤児院に莫大な援助をし、女工の生活環境改善に留意し、倉敷に近代的な総合病院を建設します。

『社会から得た財はすべて社会に返す』との信念だそうです。すごいなぁ。

貧乏をどう防ぐか。それを自由に研究するには、政府よりも民間の研究所がよい。そのための金は惜しまぬとして、大原社会問題研究所(現在の法政大学大原社会問題研究所)を設立します。

金は出すが口は出さず、研究者の好きにしてもらうという、まことにありがたいスポンサーであったようです。



『孫三郎は、理想を抱いて勉強する男が好きであった。そして、一度その男を信じたら、どこまでも面倒を見る。どこまでも尽くす−それが、孫三郎の流儀であった。』



弱者には優しく、社内に食堂や売店、診療所を作るなど社員を大切にしました。

工場の寮がアイロンの不始末で焼失した時、「怪我人はなかったか。」と訊いただけです。

しかし慈善家としての顔だけではなく、冷徹な経営者としての顔も持っていました。

消失した寮を新築しようとの稟議が上がってきた時、残った三棟でやっていくよう指示し、「人もへらさにゃいかんと思っていた。ええチャンスだ。」と言ってます。


昭和七年、満州事変調査のため来日したリットン調査団の一部団員が大原美術館を訪れ、そこにエル・グレコをはじめとする名画の数々が並んでいるのに仰天する。

このことから、日本の地方都市クラシキの名が知られるようになり、太平洋戦争下も、世界的な美術品を焼いてはならぬと、倉敷は爆撃目標から外された、と言われる。

大原孫三郎は、世界的に有名な絵画を収集した美術館を作ることによって、倉敷の町を守ったのです。

金を儲けることにおいては大原孫三郎よりも偉大な財界人はたくさんいました。しかし金を散ずることにおいて高く自己の目標をかかげてそれに成功した人物として、日本の財界人でこのくらい成功した人はなかったといっていいでしょう。