柿の種

柿の種
日本に近代理系の学問を紹介した寺田寅彦の随筆集。有名な米菓とは関係なく、友人が主催する俳句雑誌「渋柿」に載った随想をまとめたことから表題をつけたようです。

寅彦は文豪夏目漱石の弟子として有名です。

実験科学者の観察力で世情や人情を切り取って表現しており、口語体の文章とも相まって、今読んでもまったく古びていない。

先週発売の雑誌にエッセイとして載っていても違和感がありません。

秋晴れの午後二時の病床で読書していたら、突然北側の中敷窓から何かが飛び込んで来て、何かにぶつかってぱたりと落ちる音がした。

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しばらくして娘が二階へ上がって来て「オヤ、これどうしたの」と言いながら縁側から拾い上げて持ってきたのを見ると一羽の鴬の死骸である。

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鳥の先祖の時代にはガラスというものはこの世界になかった。ガラス戸というものができてから今日までの年月は鳥に「ガラス教育」を施すにはあまりに短かった。

人間の行路にもやはりこの「ガラス戸」のようなものがある。失敗する人はみんな眼の前の「ガラス」を見そこなって鼻柱を折る人である。

「二階の欄干で、雪の降るのを見ていると、自分のからだが、二階といっしょに、だんだん空中へ上がっていくような気がする」と今年十二になる女の子がいう。


特に親子の情愛について書かれた文章が暖かいです。


子猫が勢いに乗じて高い木のそらに上ったが、おりることができなくて困っている。

親猫が木の根元にすわってこずえを見上げては鳴いている。

人がそばに行くと、親猫は人の顔を見ては訴えるように鳴く。

あたかも助けを求めるもののようである。

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子猫はとうとう降り始めたが、脚をすべらせて、山吹の茂みの中へおち込んだ。

それを抱き上げて連れて来ると、親猫はいそいそとあとからついて来る。

そうして、縁側におろされた子猫をいきなり嘗め始める。

子猫は、すぐに乳房にしゃぶりついて、音高くのどを鳴らし始める。

親猫もクルークルーと恩愛にむせぶように咽喉を鳴らしながら、いつまでもいつまでも根気よく嘗め回し、嘗めころがすのである。

単にこれだけの猫のふるまいを見ていても、猫のすることはすべて純粋な本能的衝動によるもので、人間のすることはみんな霊性のはたらきだという説は到底信じられなくなる。(大正11年6月、渋柿)


この逸話も載っている少し長い随想に「子猫」というものがあります。それによると上の話の親子猫は実の親子でないことが分かります。


  1. 大正10年の夏から始めて猫を飼い始めた。

    これまでかつて猫というもののいた事のない私の家庭に、去年の夏はじめ偶然の機会から急に二匹の猫がはいって来て、それが私の家族の日常生活の上にかなりに鮮明な存在の影を映しはじめた。


  2. 大正11年の春に始めて猫が子を産んだ。

    ことしの春寒のころになってから三毛の生活に著しい変化が起こって来た。それまでほとんどうちをあける事のなかったのが、毎日のように外出をはじめた。従来はよその猫を見るとおかしいほどに恐れて敵意を示していたのが、どうした事か見知らぬ猫と庭のすみをあるいているのを見かける事もあった。


  3. しかし産まれた子猫はすべて死んでしまった。

    そのうちにもう生命の影も認められないようになった子猫はすぐに裏庭の桃の木の下に埋めた。...あとから生まれた三匹の子猫はみんなまもなく死んでしまった。


  4. 子供が捨てられた子猫を拾ってきた。

    ある日学校から帰った子供が見慣れぬ子猫を抱いて来た。宅の門前にだれかが捨てて行ったものらしい。白い黒ぶちのある、そしてしっぽの長い種類のものであった。


  5. 三毛は拾われてきた子猫を世話するようになった。

    三毛を連れて来てつき合わせると三毛のほうが非常に驚き恐れて背筋の毛を逆立てた。しかしそれから数時間の後に行って見ると、だれかが押し入れの中にオルガンの腰掛けを横にして作ってやった穴ぼこの中に三毛が横に長くねそべって、その乳房にこの子猫が食いついていた。子猫はポロ/\/\とかすかに咽喉(のど)を鳴らし、三毛はクルークルーと今までついぞ聞いた事のない声を出して子猫の頭と言わず背と言わずなめ回していた。一度目ざめんとして中止されていた母性が、この知らぬよその子猫によって一時に呼びさまされたものと思われた。私は子を失った親のために、また親を失った子のために何がなしに胸の柔らぐような満足の感じを禁じる事ができなかった。

     三毛の頭にはこの親なし子のちびと自分の産んだ子との区別などはわかろうはずはなかった。そしてただ本能の命ずるがままに、全く自分の満足のためにのみ、この養児をはぐくんでいたに相違ない。しかしわれわれ人間の目で見てはどうしてもそうは思いかねた。熱い愛情にむせんででもいるような声でクルークルーと鳴きながら子猫をなめているのを見ていると、つい引き込まれるように柔らかな情緒の雰囲気につつまれる。そして人間の場合とこの動物の場合との区別に関する学説などがすべてばからしいどうでもいい事のように思われてならなかった。


  6. 「渋柿」に書かれた大正11年6月の随想は、5.の時期を指している。


こうした前提を踏まえて、三毛猫が捨てられた子猫へ寄せる情愛を暖かく見つめている寅彦は文は優しいです。



しかし寅彦自身は父親との間に暖かい思い出はないようです。

親類のTが八つになる男の子を連れて年始に来た。

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貧しくてもにぎやかな家庭で、八人の兄弟の間に自由にほがらかに活発に育ってきたこの子の身の上を、これとは正反対に実に静かでさびしかった自分の幼児の生活に思い比べて、少しうらやましいような気もするのであった。


寅彦の父は25歳の時、実弟が刃傷事件に巻き込まれ、介錯役として首を切り落とす役目を担わされた。そのためか内向的であり、家庭的な甘さを拒否した人のようであった。(「寺田寅彦の生涯」より)


寺田家は元々土佐高知出身で郷士の家系でした。寅彦の叔父にあたる人が切腹させられたのは、井口事件と呼ばれています。

郷士の方が厳しい処分を受けたことで、階級対立を激化させ、土佐勤王党結成の切っ掛けとなりました。


閑話休題



熊本高校時代に漱石先生から薫陶を受けて私淑するようになります。漱石と一緒に子規について俳句を習ってます。

自分の持って行く句稿を、後には先生自身の句稿といっしょにして正岡子規の所へ送り、子規がそれに朱を加えて返してくれた。そうして、そのうちからの若干句が「日本」新聞第一ページ最下段左すみの俳句欄に載せられた。自分も先生のまねをしてその新聞を切り抜いては紙袋の中にたくわえるのを楽しみにしていた。自分の書いたものがはじめて活字になって現われたのがうれしかったのである。


東京帝国大学へ進学し、教授となってからも足繁く漱石の元へ通います。弟子が漱石宅に行って良い日は木曜と決められていたのですが、寅彦だけは別格で木曜以外の日でも訪問しています。

帰朝当座の先生は矢来町の奥さんの実家中根氏邸に仮寓していた。

...

たしかその時にすしのごちそうになった。自分はちっとも気がつかなかったが、あとで聞いたところによると、先生が海苔巻にはしをつけると自分も海苔巻を食う。先生が卵を食うと自分も卵を取り上げる。先生が海老を残したら、自分も海老を残したのだそうである。先生の死後に出て来たノートの中に「Tのすしの食い方」と覚え書きのしてあったのは、この時のことらしい。

 千駄木へ居を定められてからは、また昔のように三日にあげず遊びに行った。そのころはやはりまだ英文学の先生で俳人であっただけの先生の玄関はそれほどにぎやかでなかったが、それでもずいぶん迷惑なことであったに相違ない。きょうは忙しいから帰れと言われても、なんとか、かとか勝手な事を言っては横着にも居すわって、先生の仕事をしているそばでスチュディオの絵を見たりしていた。

吾輩は猫である」によって有名人になってしまった漱石を遠くに行ってしまったように感じて寂しがっています。

吾輩は猫である」で先生は一足飛びに有名になってしまった。ホトトギス関係の人々の文章会が時々先生の宅で開かれるようになった。

漱石だけではなく家族からも親愛の情を寄せられています。

晩年には書のほうも熱心であった。滝田樗陰君が木曜面会日の朝からおしかけて、居催促で何枚でも書かせるのを、負けずにいくらでも書いたそうである。自分はいつでも書いてもらえるような気がしてついつい絵も書も一枚ももらわないでいたら、いつか先生からわざわざ手紙を添えて絹本に漢詩を書いたのを贈られた。千駄木時代の絵はがきのほかにはこれが唯一の形見になったのであったが、先生死後に絵の掛け物を一幅御遺族から頂戴した。


寅彦が漱石を慕っていたのは、漱石が高名な文豪だからではなく、漱石先生だったからです。

文末に来て漱石先生への思慕の情を吐露しているのは寅彦の真情が伺えて心を打たれます。

自分の中にいる極端なエゴイストに言わせれば、自分にとっては先生が俳句がうまかろうが、まずかろうが、英文学に通じていようがいまいが、そんな事はどうでもよかった。いわんや先生が大文豪になろうがなるまいが、そんなことは問題にも何もならなかった。むしろ先生がいつまでも名もないただの学校の先生であってくれたほうがよかったではないかというような気がするくらいである。先生が大家にならなかったら少なくももっと長生きをされたであろうという気がするのである。


2回も妻に先立たれて失意にあった寅彦にとって漱石先生は師以上の存在であったと思います。



いろいろな不幸のために心が重くなったときに、先生に会って話をしていると心の重荷がいつのまにか軽くなっていた。不平や煩悶(はんもん)のために心の暗くなった時に先生と相対していると、そういう心の黒雲がきれいに吹き払われ、新しい気分で自分の仕事に全力を注ぐことができた。先生というものの存在そのものが心の糧(かて)となり医薬となるのであった。


寅彦が書いた随筆の中には親子の情愛を描いたものが散見されます。親子の情景を描写する寅彦は限りなく優しいです。

大学の構内を歩いてきた。

病院のほうから、子供をおぶった男が出て来た。

近づいたとき見ると、男の顔には、なんという皮膚病だか、葡萄ぐらいの大きさの疣(いぼ)が一面に簇生(そうせい)していて、見るもおぞましく、身の毛がよだつようなここちがした。

背中の子供は、やっと三つか四つのかわいい女の子であったが、世にもうららかな顔をして、この恐ろしい男の背にすがっていた。

そうして、「おとうちゃん」と呼びかけては、何かしら片言で話している。

そのなつかしそうな声を聞いたときに、私は、急に何物かが胸の中で溶けて流れるような心持ちがした。